現代の日本ではリベラリズムは左派、
ナリショナリズムは右派の、それぞれ“代名詞”になっているようだ。ところが欧米では、以前から「リベラル・ナショナリズム」という考え方が浮かび上がっている。「そもそも、共通の文化的基盤のまったくない所で民主主義的な議論など成立するのであろうか。古代ギリシアのデモクラシーがポリスという共同体と不可分なものであったことはいうまでもない。西洋近代の民主主義の歴史を考えてみても、それが国民国家の形成と表裏一体のものであったことは明らかであろう。そうしたなかで1990年代に英語圏で『リベラル・ナショナリズム』という議論が登場してきた。それは民主主義の文化的超越性・中立性に疑義を呈し、ナショナルな文化や伝統が反映した民主主義を考えていこうとするものである。彼らにいわせれば、そもそも共同体の連帯意識や信頼感というものが前提になければ、民主主義に必要な寛容や妥協は生まれず、分裂や対立を招いてしまう。その際、政治の場において機能すべき共通のアイデンティティは、やはりナショナル・アイデンティティであるという。共通の『母語』に基づくことによって、大衆も政治的議論に参加することができ、連帯意識に基づく『平等』や、誰もが多くの選択肢をもつ『自由』を実現することができるというのである」(田中久文氏)わが国においても、明治時代の民権論(リベラリズム)は国権論(ナショナリズム)と手を携えていた。最初の全国規模の自由民権結社の名前が「愛国(!)社」だったのは、甚だ示唆的だ。民権運動のロジックとしては、次のような主張が掲げられていた。「人のよくその権利を強固にしてその幸福を維持して、安全なることを得る所以(ゆえん)は、国家あるが為なり。それ国家の安危は実に一人の安危に関す。ゆえに一国安んずれは一人また安んじ、一国危うければすなわち一人もまた危うし」(愛国社再興趣意書。一部、漢字をかなに開き、また常用漢字に変更した)。ナショナリズムとリベラリズムを対立関係から“だけ”見るのは、
当たらないだろう。